八尾に始まる日本建国創建史

「ΙΑΩ(八尾)に始まる日本建国創建史」に至る迄の足跡(URL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 )

【日本建国史・設計図】とは、世界最初の【ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)・思想】に因る【日之本国・創建年設定図表】(復元)の意で在る。

『肥前風土記』逸文【與止日女】(ユタ姫=豊姫&淀姫)

【追記】(令和5年=2023/01/31・火曜)…
★【日本(ヤマト)国家・創建史】(カミ代の物語~景行天皇迄)!!

【追記】(2023/01/29=令和4年・日曜)しました~
佐賀県の「伊万里=ゐまり」とは、カミ「ΙΑΩ=ヤオ」(死海文書断片文字)に関連するメシアの別称【イェバシロー】(IBASILHのカバラ数価【358】/創世記49・9~10)の降臨地名である!!

つまり、ユダヤの大祭司オニアス4世(BC145年頃エジプトに亡命)の流れをくむ祭祀職「ΙΑΩ=ヤオ・のアラヒト」は、極東の島に於いて必要不可欠な刃物としての良質【黒曜石】産出地「腰岳」を押さえる意味から、其処はGod最初の降臨地【ゐまり】(佐賀県伊万里市の語元)と命名し、九州北部に大型甕棺墓文化圏(吉野ケ里遺跡)として発展させた。その後、河内(大阪府)を居住地として小国を纏めるヤマト国家として統一する為の「ヤマト祭祀方式」294年で1巡年する死海宗団祭祀方式)を確立(AD57年に後漢の王から金印【漢委奴国王】賜る)し、大祭司アラヒトは居住地を河内(大阪府)に移し、更に河内湖(現在の大阪府東部)の開発に取り組んだそして、念願としての国家【ヤマト=日ノ本】を創建(崇神天皇12年=AD351年)するを以て、その国家の運営は、ミマキイリヒコ(崇神天皇)に引き継がれました。

因みに【オニ/鬼】の語元は大祭司(オニアス四世系の子孫)の隠居を意味する「終えもの」(目に見えない物)が語元だった。従って、「非時香果」(トキジクノカグノコノミ)を求めて常世国へ渡る田道間守は、God最初の降臨地だった伊万里(伊万里市史・伊万里神社】伊萬里神社略記)を経由したのである~  


伊万里はその後年~「源融」(ミナモト・トオル/平安時代の左大臣)の玄孫、源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の👹鬼退治の主役)。つまり、その綱が大祭司オニアス四世系の子孫(👹の語元呼称)や、その流れをくむ伊万里の地を滅ぼした後、渡辺綱(鬼退治)の子「源太判官久」が伊万里氏を名乗り、松浦党の祖と成った。
※【追記】終り。




★『肥前風土記』逸文【與止日女】(ユタ姫=豊姫&淀姫)
伊万里の【淀姫神社=河上社】(ヨト姫=與止日女に付いては日本書紀・古事記に記載無し)~伊万里市での所在地は【佐賀県伊万里市木須町】と【伊万里市大川町大川野】~

因みに『肥前風土記』の逸文に因ると~【與止日女】(ユタヒメ=豊姫)とあり、【淀姫】とも記す。


【ツクシ・筑紫】とは九州一帯言い表す呼称だった。つまり、山幸彦(後のホホデミ尊)の妻で豊玉姫の父であるワダツミ(海神は住吉氏族の祖先)が九州を統一(身を尽くし生む)したとする語意が語元(黎明的な意味を含む語源の意ではありません)でした。そのワダツミが居住地としていたのは有明海北西部(佐賀県)だった。そのワダツミに仕えていたサカシメ(賢女)が【與止姫】(別名ユタ姫・淀姫は山幸彦が無くした釣り針を探し出した女性の事)であり、佐賀県の語元となる…!!

因みに、『肥前風土記』の逸文に因ると~欽明25年11月、肥前国の佐嘉郡に與止姫カミ(豊姫=ユタ姫/淀姫とも記す)が鎮座されたと記す。その佐嘉川(サカカワ)は現在の「嘉瀬川」(荒ぶるカミとはカセガワの氾濫を意味する)です~😀

因みに、『肥前風土記』の逸文に因ると~欽明25年11月、肥前国の佐嘉郡に與止姫カミ(豊姫=ユタ姫/淀姫とも記す)が鎮座されたと記す。その佐嘉川(サカカワ)は現在の「嘉瀬川」(荒ぶるカミとはカセガワの氾濫を意味する)です。然し、【與止姫】(ヨト姫)の事は、日本最古の歴史書とされる『日本書紀』には記載されてなく、【淀姫伝承】は肥前風土記に起因します~因みに【ユタ(豊)姫】とは「ダビデ系ユダヤ人の女性」を意味します~😀

【吉野ヶ里遺跡】(大型甕棺墓文化圏)が意味する処は、松浦党の前身【ワダツミ】(ハデツミ=海神)が、有明海から日本海方面に出る唐津や伊万里湾への中間地であり、それは伊万里の腰岳(伊万里富士/良質の黒曜石産出地・鏃等に使用)から産出する【黒曜石】の入手に関連していたと考えられます。

『肥前風土記』時代頃(黄緑地域の海岸線?↓ ↓ ↓

★【與止日女】の出自は、日本書紀の底本である【ホツマツタヱ】(1966年=昭和41年8月に松本善之助氏が神田の古書店で小笠原長武氏に因る奉呈文を発見)だった。その秀真伝(ホツマツタヱ)に因ると~

◎詔(ミコトノリ)、鯛はウオ君、御食の物、シルシ(印・標)はウロコ(鱗)、三ツに山、うつしてかえす(写して返す)、3ツ山の、鯛は此れ也、口はイム、アカメ(赤女は、山幸彦=彦火火出見尊が無くした釣り針を探し出した女性)お誉めて、ヨトヒメ(與止日女は3ツ山の鱗を上下に返して六芒星のダビデ紋の事を知っていた女性=赤女)と、名前を賜う(ホツマツタヱ25章)~と記されています。

【追記】↓ ↓ ↓
『肥前風土記』(和銅6年=713年に諸国に命じ提出させた文書)の逸文に、「日本国家創建史」(AD1世紀~4世紀頃)に関連する記述があります。それは肥前(佐賀県)の【杵島唱曲】(きしまぶり/おこ歌=笑い歌・歌垣)です。そしてそれが、遠く離れた東北の『常陸風土記』に取り込まれていた。つまり、東北の古老曰く~「崇神天皇(AD340~408年)の御代、タケカシマ(健借間命)は七日七夜【杵島唱曲】で国栖(クズ=国)達を誘き出して平らげたと記す。従って、その地名は【茨で痛い】(茨は刺がある低木の総称)意として「伊移之郷」(イタクノサト)名付けられたと記す。

その意味する処は、それ迄の連合国体制(
筑紫九州/山陰山陽中ツ国/畿内中央/関東&ホツマ国&東北陸奥との持続的連合体)を、崇神天皇の12年(AD351年・『日本書紀』12年条)の詔(ミコトノリ)。即ち~「肇(ハツ)国知らす崇神(ミマキ)の代」と発せられた。つまり、その詔を以て【統一・ヤマト国家】(AD351年)の成立となる。その意味する処は、最後まで抵抗していた東北の国賊(国栖)を11年夏4月に討ち平らげ、その四道将軍は夷賊を平らげた状況を奏上するを以て、その翌年に統一国家成立とする詔が発せられたと言う事です。


何故、それが崇神天皇12年(幻の西暦351年=AD351年)なのかと言えば、それは創世記49・9~10に記すメシア来臨文言「IBASLH」(イエバシロー)のカバラ数価【358】を用い過去年へ遡り(崇神12年=AD351年ー358=紀元前7年)、反逆者と成った長髄彦を討伐する物語を設定する為であった。

つまり、長髄彦討伐開始年から八年目(幻の西暦1年目・辛酉)を神武天皇の即位元年と定義し、そしてそれは、【統一・ヤマト国家】としての歴年史として再制定するに当たっては【
メビウスの帯=輪】(片方ほ180度ひねり他方の端張り合わせた形状)的状態の歴年方式を以て再設定されました~


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