八尾に始まる日本建国創建史

「ΙΑΩ(八尾)に始まる日本建国創建史」に至る迄の足跡(URL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 )

【日本建国史・設計図】とは、世界最初の【ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)・思想】に因る【日之本国・創建年設定図表】(復元)の意で在る。

【IAΩ】(八尾市の語元)の語元に始まる【日本建国・創建史】~

…★【IAΩ】の文字は、戦後(大東亜戦争)発見されたQumran第4洞穴から出土のレビ記(Q第4洞窟レビ記3・12&4・27)断片文字。

★【松浦】(魏志倭人伝の末廬国/後年の肥前国)の語元(黎明の語意を有す語源の意ではない)は、豊玉姫(神武天皇の父方の祖母に当たる)の父「海人・ハデツミ」(ワタツミ)を祖とする【松の君】(松の木のコブ的筋肉隆々・八十力を有す長身者集団を率いた主)の呼称に由来する。

戦前の伊万里市山代町立岩字「浦ノ崎・塩浜海岸」(川南造船所の南端・社宅~追﨑峠の崖下一帯)の画像在り(下段)!!

初夏の或る日の昼頃、小学校(その日は担任の先生の家庭訪問の日)から帰ってみると、県道(後の国道204号線)拡張工事と向山炭坑の立坑と石炭積み出し建設に相まって、我が家は立ち退きを余儀なくされていました。それで、叔父(焼塩&瓦製造業)が植えていた3本の【ハマボウの花の木】(現在は佐賀県の絶滅危惧種指定)が無残にもが切り倒され小さく切り刻まれていました。その悲しみと悔しさは今(76歳)でも忘れる事が出来ません。

その年の学校の夏休み入った時、それは、立ち退きに応じ【浦ノ崎・変電所】近くの叔父の土地に家を建てていて、新築の家に引っ越し(昭和31年=1956年7月終り頃)した、その最初の夜の事でした。寝床に就くなり悔し涙が溢れ止まらなかったが何時しか寝込んでしまい、夢をみました。それは、埋め立てられた我が家が在った処一帯がブルトーザで整備されていた夢でした。それで夢から覚めた私は、今はボタ(坑内の廃土)で荒れ果てているが、将来此の場所は整備されると私は確信しました。

それで、小学1年生の時(7歳)に叔父の小型発動機船で仰向けになり天を見ていた或る日の昼過ぎ~「一瞬・光が私の額を貫いた」。フト、我に返ると《自分にしか出来ない事がある》と言う言葉が私の頭にインプットされていた、そのインプットの言葉を思い出しました。そして「その何たるか」を探し出して故郷の浦ノ崎の在りし日の美しかった塩浜海岸一帯が開発される時には何か手伝いたいと考えました。「その何たるか」は、日本の国語の元点【ヤマト言葉】と、ヤマト思想【日本国家・創建者】のルーツを解明する事にあると捉えました。つまりそれは~「哲学者・梅原猛氏説/昭和61年=1986年8月22日の毎日新聞金曜夕刊・コラム欄記事」に感化されたからでした。それで、脱サラして13年に及ぶ「自分探しの旅」(インナートリップ)に終止符を打ち、本格的にルーツ等の研究に打ち込んだ結果、その一年後に解明する事に成功(昭和62年=1987年/40歳)しました。

つまり、その「ヤマト思想の日本国家創建者集団」(脱ユダヤ教のQumran宗団トップグループ)の人達は、紀元前31年のユダヤのクムラン大地震年以降、紅海~会稽(その昔は呉の会稽の東冶の東方に向け徐福一行が出航し極東の列島に辿り着く)を経て、現在の九州有明海北西部に辿り着く(後年~海神・豊玉姫の父ハデツミ氏の支配地となる)。そして国際的な表玄関(前漢と後漢の中間に位置す王莽時代)を伊万里(良質黒曜石の産出地/伊万里の語元はGod・カミは存在する意の「ゐまり」)の地と定め、その伊万里(シロ=メシアが来る/創世記49・9~10)の港を足場(日本水軍の長で松の君を語元とるマツラ=松浦水軍の本拠/住之江氏族の祖)として先ず【極東列島全体の地図作り】、即ち、「日本のカミ代の物語」の時として、伊弉諾尊に因る大八州(本州・四国・九州ツクシ・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡)の地図が作成されました~



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