八尾に始まる日本建国創建史

「ΙΑΩ(八尾)に始まる日本建国創建史」に至る迄の足跡(URL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 )

【日本建国史・設計図】とは、世界最初の【ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)・思想】に因る【日之本国・創建年設定図表】(復元)の意で在る。

…浦ノ崎郷社【佐代姫神社の社宝・高麗壺】(国宝級)の捜索依頼

浦ノ崎郷社【佐代姫神社の社宝・高麗壺】(国宝級)の捜索依頼


…【大伴旅人】(オオトモノタビト)は松浦(佐賀県唐津市)に行くが、大伴佐提比古(オオトモノサデヒコ)の歴史的内容(任那を支援する為に朝鮮半島へ赴く)にふれていない事を山上憶に諭され、大伴旅人は「松浦の佐用比米」対する歌を詠む(万葉集/巻5・871~875)。然し、それは最初の歌「巻5・871番」に当たる。つまり、その後に続く「第872番~875番」迄の4つの歌は、「後人追和」(返歌)と記し、別の人が返歌した形式(詠み人知らず)を取っているとされている。

★~『萬葉集』(巻5--871/大伴旅人の歌)~「得保都必等(とほつひと)、麻通良佐用比米(まつらさよひめ)、都麻胡非尓(つまこひに)、比例布利之用利(ひれふりしより)、於返流夜麻能奈(おへるやまのな)」(大伴旅人)。


★~(巻5--872)「夜麻能奈等(やまのなと)、伊賓都夏等可母(いひつげとかも)、佐用比賣何(さよひめが)、許能野麻能閇仁(このやまのへに)、必例遠布利家牟(ひれをふりけむ)」(詠み人知らず)。


★~(巻5--873)「余呂豆余尓(よろづよに)、可多利都夏等之(かたりつげとし)、許能多氣仁(このたけに)、比例布利家良之(ひれふりけらし)、麻通羅佐用嬪面(まつらさよひめ)」(詠み人知らず)。


★~(巻5--874)「宇奈波良能(うなはらの)、意吉由久布祢遠(おきゆくふねを)、可弊礼等加(かへれとか)、比礼布良斯家武(ひれふらしけむ)、麻都良佐欲比賣(まつらさよひめ)」(詠み人知らず)。


★~(巻5--875)「由久布祢遠(ゆくふねを)、布利等騰尾加祢(ふりとどみかね)、伊加婆加利(いかばかり)、故保斯苦阿利家武(こほしくありけむ)、麻都良佐欲比賣(まつらさよひめ)」(字余り/詠み人知らず)。

★…佐賀県伊万里市山代町立岩「浦ノ崎・社会保険病院」の中庭に設置されていた【佐代姫(さよひめ)・塚】が、その西側に位置する【佐代姫・神社】の境内 に移されたと同級生から聞きました。その昔、大伴狭手彦(大伴金村の三男)は、宣化天皇2年(537年)冬10月。任那(ミマナミマキイリヒコ=崇神天皇の御名がミマナ国称と成る)を救う為に朝鮮半島に派遣された。そして新羅(しらぎ)を討って日本に帰る。


★…つまり、サデヒコ(大伴狭手彦)の船を追うも嵐に遭遇(船頭は逃げた)し、息絶えたサヨヒメの遺体を乗せた小舟は、或る河口の岸辺に流れ着いた。その遺体を見付けた漁師達は、小舟が流れ着いた地域の川の近くに塚を築き、丁重に埋葬されました。日本に帰った「サデヒコ」は、佐代姫が葬られた場所(現在の伊万里市山代町立岩浦ノ崎・海岸付近)を佐代姫の父に聞いて、供養の為の神饌(シンセン/御食・供物の総称)を盛る器、【高麗(こうらい)壺】(新羅壺が正しい/高麗とは918年~1392年間の国称)等を持参したとされています。その浦ノ崎【佐代姫・神社】、つまり、郷社「佐代姫神社の宝=高麗壺」日本の先史時代/日本最古の歴史的遺物で国宝に値するが、現在、行方不明になっています。それで、早急に探し出される事を願っています。関係者の方々、宜しくお願いします~

★…郷社【佐代姫神社・縁起書】(佐賀県伊万里市山代町立岩・浦ノ崎)に因ると、松浦(唐津市)の佐用姫(麻都良佐欲比賣・まつらさよひめ)は、大伴連狭手彦が任那(国称ミマナの語元はミマキイリヒコ=崇神天皇の御名を語元とする)の救援(宣化2年・西暦537年)に赴く征船を小舟で追うが、嵐に遭遇する。それで、その小舟の船頭は途中で逃げる。力尽き、息絶えたサヨヒメの亡骸を乗せた小舟が流れ着いた海岸(佐代川の河口・佐代搦(からみ)付近)近くの漁師達は、【サヨヒメ・塚】を築き丁重に埋葬し供養されました。そして、その供養は現在に至っています。因みに、此の話は「日本・三大悲恋物語」の一つとされ、尚、近年(2012=平成23年)にあっては小惑星の名称【佐用姫小惑星発見者は唐津の佐藤直人氏)として命名され、夜空の星として輝いています。

★…浦ノ崎【佐代姫・塚】は、謎の先史(6世紀以前)に於ける日本最古の「歴史的遺跡」です。因みに、唐津の「麻都良佐欲比賣・伝説」は、浦ノ崎に【佐代姫・塚】が設置された年から191年も過ぎた年(728年)に、大伴旅人が詠んだ和歌「麻都良佐欲比賣の歌」に合わせて初めて創作された物語です。つまり、「日本・三大悲恋物語」①松浦佐用姫伝説・②羽衣物語・③竹取物語)の一つとされる「松浦佐用姫・伝説」は、飽くまでも伝説であって歴史を裏付ける証拠は何一つ、存在しません。従って、「松浦・サヨヒメ」の和歌が詠まれた年(728年)から過去へ遡る事191年も前(537年)、既に、浦ノ崎の【サヨヒメ・悲恋物語】は語り継がれていました。その話に因ると~帰国した狭手彦は、松浦のサヨヒメの父から【佐代姫・塚】の所在地聞いて訪れ、朝鮮半島から持ち帰った器等に神饌(シンセン/御食・供物の総称)を盛る器、つまり【高麗壺】(新羅焼き壺が正しい/高麗とは918年~1392年間の国称)に盛って供えたとされている、その【新羅焼・壷】こそが、歴(レッキ)とした歴史的史実を裏付ける物的証拠に当たります~


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